小学校の思い出「工学の原体験」

学校の帰り道に,科学の実験道具や実験用器具を製造販売している会社があった.鉛筆の代わりにダイアモンドのガラス切りがついたコンパスでガラス板に円を描く.ひとつの板に10個以上の丸が描かれる.そして,端をパチンと叩くと,次から次と周りが割れて,円形の板が残る.その作業を道路から飽きずに眺めていた.それを高学年の姉が見つけて「タミオったら,またお店覗いて,道草していたわよ」と母に報告した.

バッテリー屋があった.車の発電機(ダイナモ)を壊して,中の銅線を抜く.赤や黄色のエンパイアチューブは汚れて灰色になっているが,その横で銅の地金の整流子が輝いていた.中仙道を渡った反対側には建具屋があって,日本家屋用の敷居や鴨居を削っていた.機械かんなや溝堀機がシュルシュルと音を立てて,鉋屑をはきだしていた.ヒノキの香りが苦しかった.私にとっての工学の原体験はここにあった.

科学教室という制度が文京区で始まった.小学校5年生だったと思うので,昭和33年である.曖昧な記憶での話ゆえ,いろいろなところに間違いがあることを初めからお断りしておく.

文京区立千駄木小学校で土曜日に開催された.小学校の4時間目を早退する.きっとひとつの小学校から数人が選ばれて参加したのであろう.選ばれたことの誇らしさと授業を途中で抜け出ることの後ろめたさを感じながら,追分から駒込病院まで荒川土手行きのバスに乗っていった.

沼田先生(?)という理科の先生が熱心に実験を指導してくれた.そのひとつに,「鉱石ラジオの製作」があった.覚えているのは銅版にポリエチレンフィルム(きっとラップか袋だったのだろう)を巻き,2枚を輪ゴムで止めただけの構造のバリコン(Variable Condensor)だった.これを自分で巻いたコイル(フェライトの棒に巻いたのか,それとも紙の空芯だったのか)につなげて,同調回路を作った.他の実験は覚えていない.しかし,これが私の科学技術に関する理解の元となったことは疑いもない.

もうひとつのものづくりは,須田町の交通博物館だった.そのころの男の子達は皆,電車が好だった.都電でも省線(山の手線も中央線も鉄道省の線路から省線と呼んだ)でも一番前に乗って,自分が運転しているような気になっていた.大きな蒸気機関車や電気機関車が並んでいる交通博物館は憧れの場所だった.その交通博物館でモータを自作する教室が開催された.3極DCモータを自分で作る.回転子は積層構造の本格派で,その間にエナメル線を巻くのは大変だった.出来上がったモータは良く回った.そのモータの残骸はそのあと10年以上,私のガラクタ箱の中にあった.



(注) 文京区教育センター発行の 「文京区教育センター紀要(第41号)平成18年度」 http://www.bunkyo-tky.ed.jp/files/41kiyo.pdf によれば,
昭和33年4月1日 教育研究所に運営委員会を設置
     文京区小学校科学教育センターを窪町小学校、千駄木小学校に設置.
     文京区中学校科学教育センターを第四中学校に設置
とのことです.これに行ったのですね.

Copyright (C) 1997-2009 Tamio ARAI      [Last updated: 080725(robot.t)/050801/050505 by Arai]