私の小学校

誠之小学校

 私は東京都文京区立誠之小学校の卒業である.

 普通の区立の,そして地元の小学校である.

 違うところといえば,本郷の東大から10分程度のところにあるので,いわば東大も通学地域である(正式には本郷7-3-1 の住民が何処の小学校に割り付けられているのか知らない.)東大前の商店街は当然この小学校の通学地域に入っているので,蕎麦屋やラーメン屋で小学校の話がでる.この小学校はまた,東京大学の先生が昔は沢山住んでいた地域であった西片町の真ん中にあることと,その西片町が郵便番号制度を導入する契機になった地域であることもよく知られている.

 私が現在の住所に移り住んだのは,昭和27年3月.4歳のときである.まだ家の回りは空き地が彼方此方にあった.だから,2km以上北にある巣鴨の駅を通り抜ける貨物列車の汽笛がよく聞こえた.私が住んだ地域は,別の小学校の指定地域であった.そこまで通ううには1.5Km近く歩かなければならず,誠之のほうが近かった.親は誠之を選んだ.選んだというのは聞こえがよいが,「越境」である.つまり,西片のどこかの知り合いに頼んで,その家に母と姉と私が住んでいることとした.ベビーブーマの世代に合わせて,東京の各区では小学校の拡充をしていた.私が入学の歳になったとき,近所の新しい区立の小学校が出来た(正確にいうと,戦争中一時廃校になっていた小学校が再興された).こちらのほうがずっと近かったが,姉と共々,誠之へ通ったのである.

 この小学校は越境組が多数居た.板橋,田端などからバスに乗ってやってくる.小学校に入ったときから学校側はちゃんと定期の手続きをしてくれる.私のように歩いて通う越境組など「定期」を持っていない分,肩身が狭い.そんな小学校だったが,それが何を意味するのかは良く判らずに通っていた.

 誠之小学校が区立ではあっても「私立と同じような雰囲気を持つ学校」であることを知ったのは,卒業してからである.卒業生へ送られてくる同窓会誌に掲載された新任校長の言葉を読むと,「誠之人道」なる言葉が出てくる.この小学校が旧福山藩(現在の広島県福山市)主阿部正弘が開校した江戸の誠之館(1854年設立)から始まったことは知っていた.福山藩に置かれた誠之館(いわば本校)は現在,広島県立福山誠之館高校(注1)になっている.そして,「誠之」とは「中庸」の一節「誠者天之道也、誠之者人之道也」(誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり)から取られたことは知っていたのだが,それは単なる昔のことであった.何かにつけてこのような話は聞かされた.しかし,小学生にとって,そんなことは年寄りじみた繰言にしか聞こえなかったのである.


60歳の同窓会

 2008年7月5日,誠之小学校の同窓会組織「学友会」が60歳を迎えた卒業生を学校に迎えるHome coming dayを実施した.

 さすが人生の区切りである.還暦を迎えたこの機会に小学校に集まる,なんと素晴らしい企画ではないかと思ったが,このところ土曜日がほかの仕事で多忙が重なっていることから,参加を躊躇していた.同期のEB君が電話をしてきて「SKさんが石川県から出てくるのだから,ぜひとも参加してほしい」との誘いであった.

 当日,我が7組は6名の参加,全体では70名ほどが参集した.恩師のIW先生もおいでになり,価値ある会合であった.そのあと,クラスだけの会合を銀座のすし屋で行った.

 60歳のクラス会,それも小学校のクラス会,思うこともたくさんあった.人生の区切りとしては思いで深かった.

給食

 私が小学校に入学したのは,昭和29年.どこの小学校もまだ机や椅子が不足してた.食糧事情はずっと良くなってきたが,満足に食べられない子供たちが沢山いた.そんな中で,誠之小学校には給食用の設備があった.他の小学校でも給食は始まっていたが,冷たいパンだった.ところが誠之では自分のところで焼いたパンが食べられたのである.私は塩気が効いて小型のコッペパンが大好きだった.時に学校でパンを食べ残すことがあった.家に持ち帰ったパンのかけらを長姉は「このパン,お店で売っているよりよっぽど美味しいわよね」といったのだから味の良さは本当だったのであろう.友人に聞くと小学校の給食はまずい記憶しかないと口々に言う.だが私には美味しかった.誠之小学校が「給食設備の指定校」になっていたと知ったのは100年史の中であった.

 給食の皿はアルマイトの板をプレスしただけのもので,円形の板に3つの凹みがあった.それと脱脂粉乳をお湯で溶いた「牛乳」を入れるコップが必要だった.私のころはまだ先割れスプーンはなかったように記憶している.これらの食器をランドセルの横にぶら下げて,登下校した.食器洗い機がなかったのであろうし,1学年580人も居る学校では手間も大変だったのであろう.ランドセルを振り回せば,当然,皿やコップは袋ごとぶつかる.そして,皿はベコベコになっていたが気にせず食べていた.誰だって同じだった.


幼稚園

 私の幼稚園は,誠之小学校の付属幼稚園といった「文京区立第一幼稚園」である.誠之小学校の斜前にある.ベビーブームで子供があふれてたことと,まだ幼稚園教育が一般化していなかったこともあって,幼稚園は1年だけであった.実は,幼稚園時代のことを全く覚えていない.だから卒業生であることは分かっていたが,それだけだった.

 さてそれから30年たって,我が家の息子が同じ第一幼稚園に入学した.園長先生が私のことを見ていった.「タミオちゃんじゃない?」私の幼稚園時代に私の担任だったのだそうである.

 誠之小学校も第一幼稚園も親子が同じところに通っている家族が多い.3代続けて同じ幼稚園と小学校に通って,「4代目がきっと入ります」という家もある.数年は海外に赴任していたが,子育てに親元に帰ってきたという同期の連中も数人知っているし,小学校のときと同じ家に住んでいる私のような例も多い.東京の本郷字西片はそんな「村」である.


(注1) 広島の福山誠之館高校の生徒さんたちが2004年8月5日に東京大学を訪問した.山本明生先生に対応していただいた.このときは150周年ということで誠之小学校も訪問したのだそうである.翌年の2005年8月4日に今度は新井研究室を訪問した.RoboCupと筋電義手とを紹介した.






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