ヒッチハイカが大学に残るまで
工学系研究科 精密機械工学専攻 新井民夫

この文章は、東京大学進学情報センターのセンターニュース41号(2005年6月21日発行)に掲載された拙文を、センターの許可を得て、掲載したものです。

1.ヒッチハイカ

 1968年(大学3年)の5月,私は横浜からヨーロッパへと旅立った(地図参照).11ヶ月にわたるヒッチハイク旅行の始まりだった.船と汽車と飛行機を乗りついて,モスクワ経由ヘルシンキ中央駅へと1週間だけが決まった日程であった.そこからヒッチハイク(道路に立って,見知らぬ人の車に乗せてもらって旅行すること.現在は多くの国で禁止されている)で移動した.その頃,北欧には日本から片道切符でやってきた若者が,皿洗いなどをしながら多くは不法滞在していた.私もそんな一人になることを覚悟して,仕事探しもした.しかし,今は皿洗いに時間と費やすべきではなく,生活は苦しくても良いから勉強しようと考えた.北欧からドイツに入り,ベルギーを抜けてケンブリッジに入ったのは7月であった.語学学校に通い,2ヶ月半を過ごした.この間,教室やトイレの掃除をして少量なりとも生活の糧を得た.9月半ばに英国を出て,ヨーロッパ内を回った.スペインから北アフリカ(ここは鉄道とバスで移動した)を抜けて,イタリアに入ったのが12月,ウイーンで新年を迎えた.日本の大学生のグループからぼろ車を買いうけ,イタリア,ギリシャを細かく回りながらイスタンブールへ着いた.以降,バスと鉄道で,イラン,アフガニスタン,パキスタン,インドへと旅し,飛行機でネパール,タイ,香港経由,日本に帰ってきたのは翌年の4月であった.(地図参照)

 その間,東京では大学紛争が拡大していった.医学部闘争から始まった東大の紛争は秋から講義がなくなり,日本中に広がっていった.翌1969年の東大入試は中止となり,1月には安田講堂攻防戦が行われた.日本からの手紙だけが大学の状況を知る手段であった.日本を脱出していることで同世代と共通体験ができないことに戸惑いも感じていた.

 ヒッチハイクとは貧乏旅行である.持ち出せる外貨は後述するように制限されていたので,1日3ドルしか使えない.1ドルが宿代に,1ドルが食費に宛がわれた.国々の物価は現在と大きく異なるが,今の価値で言えば1日3千円であろうか.目的地までの移動に成功し,宿が確定し,夕食を食べられてやっと安心できる.衣食「住」が足りてやっと人間らしくなる.そんな日々の繰り返しであった.これではただ生きているだけである.それではいけないと思い,地域の歴史を学び,文化を理解し,できればその土地の普通の家に泊まることを心がけた.建築専攻の高校時代の同級生と共に旅していたので,建築史の教科書に登場するような建物を多数訪ねた.ゴチック建築の寺院も良かったが,コルビジェのロンシャン教会を訪ねることができたのは幸運だった.また,土地ごとに異なる材料を使い,壁や屋根を作っていること.道端に生える草木が気候によって大きく異なり,それがまた景観に結びついていること.そんな考えてみれば当然のことに感動した.

2.教養学部の時代

 私が教養学部に入学したのは1966年である.日本は高度経済成長の真只中にあった.東京オリンピックは成功し,重厚長大産業が花形で,工学部が拡充された.四日市などで公害が深刻化し,社会的格差が問題となった.ヴェトナム戦争は泥沼化し,徴兵忌避者が増えた.そんな社会的背景もあって,大学の中では学生運動が盛んであった.
為替レートの変動
 
 一方で,日本の国際経済力はまだ弱かった.1ドル360円の固定相場制のなかで,ドルの実勢価格は400円を超えていた.それは外貨準備高の推移を見れば分かる.1967年には20億ドルしかなく,70年に2倍の40億ドルに,これが71年には突然152億ドルと増加する.それゆえ1967年のころ,個人の海外旅行用のドルの割当ては1回500ドルとの制限があった.円貨の持ち出しも禁止されていた.もちろん,この500ドルはそのころの初任給の4〜5ヶ月分に相当したので,少ない額ではない.そんな制限があっただけに,若者たちは海外へあこがれた.私もその一人で,教養学部に入学するとすぐに,長期海外旅行の準備を始めた.
 理Tではあったが社会科学系の講義に興味を引かれ,クラスで合宿して輪講をした.数理系は高校の延長で何とかこなせたが,語学ではぼろが出た.駒場祭委員で学生会館に入り,残りの時間は旅行の資金稼ぎのバイトに明け暮れた.進学先は工学部精密機械工学科を選んだ.先輩に商社勤めがいたことから,私も世界を飛び回って商売がしたかった(実際,私の学科の同期は1割が商社に就職した).また,電気と機械の中間といううたい文句も気に入った.成績はぎりぎりでも何とか本郷へ進学することができた.そして,その5月,横浜から出発したのであった.

 1年後に大学に戻ってみると,紛争のために3年の講義がまだ続いていた.駒場での紛争が長期化したため,次の学年が何時本郷に進学してくるか分からない.教官たちの勧めもあって,私は元のクラスに合流した.専門の勉強不足を感じた私は,大学院の受験勉強でそれまでの遅れを取り戻そうとした.卒業論文は産業用ロボットの設計であった.そして,修士課程に進み,自動組立の研究を始め,研究が面白くなり,博士課程にまでも進み,気がつけば大学に籍を得ていた.今ではロボットの研究をしている.

3.旅で学んだこと

 駒場とそれに続く旅行で私は何を学んだのか.今顧みるともっとも大きな影響を与えたのは地勢学的視点であろう.温度・湿度などの気候的違いや地理的条件が文化に影響を与えるという主張である.旅行前に読んだ梅棹忠夫著の「文明の生態史観」は北アフリカから中近東を旅することである種の確信に変わった.イランからアフガニスタンへと土砂漠の中を長く旅するとどこか攻撃的になる.カブールからカイバル峠にたどり着くと,遠くに緑野がみえる.あそこに行けば豊かな水と食料がある.アレキサンダー大王が2千年以上前にこの峠を通ったときにも同じ思いだったのだろうと感じた.そしてインドの緑の中で農耕民族的なおとなしさを取り戻す.

 地勢学的な考え方はえてして文化に対する表層的な理解しかもたらさないとの批判がある.その通りであろう.だが,それは文化の多様性を尊重すべきだとの感覚に繋がったし,地球という自然条件の中に我々が生きていることを強く認識させた.また,多くの文化遺産を見ることで,豊かさの半分は社会基盤にあり,それは栄華を誇る時代に構築されてその後の時代の人々を支えるのだと考えるようになった.この地理的条件を重視する感覚は,その後日本の製造業の在り方に関係付けられ,たとえば薬師寺泰三の「テクノヘゲモニー」(薬師寺泰蔵 『テクノヘゲモニー』中公新書(1989.3)、267頁 620円 今は手に入らないので,代わりに富田徹男先生の書評を示しておく)に著されたような製造技術の国際的移動と国の変遷とが必然と考えるようになった.日本の将来を考えるとき,このような国と技術との関係は今後重要であろうと信じている.
 もうひとつの学んだことは,人間の営みと技術の進歩との時間スケールの違いである.2001年のアフガニスタンの状況をTVで見ると,人々の生活は30年前とあまり変化していない.それに比べて日本の生活変化は大きい.特に技術的な変化は年々加速している.これでよいのだろうか.技術の進歩が人間のコントロールを上回って大丈夫なのだろうか.このような疑問を駒場時代に持ち,クラスの活動として駒場祭に展示を出した.その時の議論の対象になっていた大量生産のパラダイムはその後20年は続いた.そして,今も同じ疑問を持ち続けている私は人工物工学研究センターで大量生産のパラダイムを変え,持続性社会を構築するために「サービス工学」を提案している.一方で,技術と経済との関係の重要性を考えて,工学部の教育を変えるとことを提唱し,システム創成学科知能社会システムコースの構築に努力した.

4.学生へのメッセージ

 この話は約40年前の話である.私が駒場に居たとき(1967年)を基準にするなら,ちょうど1929年の大恐慌の経験を聞いていることに相当する.そんな経験談が若い人に何に役立つのだろうかと自問自答する.そこで最後に若い人へメッセージを送ろう.

 世界旅行をしたかったのは,日本という狭い世界から飛び出して世界を見たかったからだ.21世紀の今日,海外旅行は極めて簡単になった.また,情報と経済の結びつきから世界は小さくなり,その分だけ複雑になった.他の国を理解することは今でも容易ではない.その国の歴史,言語,文化,それに現代ではその社会を支える技術と経済とを理解することが必要となる.それに個人的な体験を重ねることが大事である.自分が出来たとは言わないが,幸いなことに私には時間があった.駒場に居る学生諸君にはどの学部,どの学科に進んでも,他の国の文化を尊重できる人間に育って欲しい.
写真
【後日談】
 この発表を聞いて,東京大学新聞が取材に遣ってきた.理由はヒッチハイクを東京から箱根まで遣ってみるという企画への追加説明だという.趣旨は反対しないが,教育の立場にある者が危険な行為を勧めてはいけないと思い,ヒッチハイクはすべきでないとの論で話した.その記事が東京大学新聞 2005年7月19日号に掲載された.東京大学新聞の許可(2005年8月)を得て,ここにそのコピーを掲載する.

経路を細かく説明しておこう。

1968年5月 横浜港発→[船]→ナホトカ==[鉄道]==ハバロフスク⇒[飛行機]⇒モスクワ==[鉄道]==ヘルシンキ ★ここまでシベリアルート(90$)
[ヒッチハイク]〜〜〜タンペレ→ストックホルム〜〜デンマーク〜〜ドイツ〜〜ベルギー〜〜オランダ〜〜ベルギー〜〜英国〜〜ケンブリッジ(★7月〜9月滞在)
〜〜フランス〜〜スイス〜〜フランス〜〜スペイン〜〜モロッコ====アルジェリア====チュニジア→→イタリア〜〜オーストリア(69年1月)
[自動車(ウィーンで慶大生から購入)]……イタリア……ギリシャ……トルコ====イランーー[バス]ーーアフガニスタンーーパキスタンーーインド⇒⇒ネパール⇒⇒タイランド⇒⇒香港⇒⇒大阪(1969年4月)

旅行のコース(世界地図)


Copyright (C) 1997-2009 Tamio ARAI      [Last updated: 080725(robot.t)/050801/050505 by Arai]

東京大学新聞の記事