山口隆男先生を偲んで 2000年6月 
「必修の製図は卒論で」
新井民夫
東京大学大学院 工学系研究科 精密機械工学専攻 教授


 精密機械工学科の中で山口研は人気の高い研究室だった.その頃,最先端のICや情報機器が並び,「電気と機械の中間」を指向してきた学生にとって,まさにぴったりの研究内容であった.そこに配属された私は,卒論として「工業用ロボットハンドの位置決めの研究」を行った.このことがその後の人生でロボットの研究を続けるきっかけとなったのである.山口研は人気が有っただけに,希望したからといって入れるとは限らなかった.しかし,私の場合は,山口先生からの御指名で配属になったのである.

 私の東京大学精密機械工学科卒業は1970年3月.山口先生の東大で最後の卒業生である.1968年から69年は学園紛争の時代であった.東大は69年1月に安田講堂攻防戦があり,4月に学園紛争も終息する.そんな時代に3年,4年を過ごしたのが私の世代である.

 私自身は68年5月にヨーロッパへヒッチハイクに出ていた.大学の卒業は1年間遅れるつもりで,翌年1969年4月まで旅行をしていた.帰国して大学に来てみると,まだ3年の講義をやっている.まだ単位が取れると言う.先生方に身の振り方を相談すると,「下の学年が駒場から進学してくるのがいつになるか分からないから,君は4年に上がってくれ.さもないと君一人のために3年の授業を行うこととなる」との返事であった.そうは言ってもこちらにも都合がある.勉強もせずに社会に出たのでは心配である.それに必修の製図も全部は履修していない.すると製図の担当の山口先生,宣わく,「君,うちの研究室に来なさい.製図をさせるから,それで製図の単位を上げる.」こうして,人気研究室の山口研に特別配属されたのであった.

 山口先生は電動義手の研究もされていた.しかし,応用の広さでは産業用ロボットだというので研究室でロボットを設計した.私も組立図から部品図まで全部で200枚以上の図面を書いた.確かに必修の製図でおこなうよりずっと沢山の線引きを行った.しかし,モータトルクの計算も,重量配分も全く気にしない設計であった.それを水道橋の東口脇にあるS社の分室に持っていき,加工をお願いした.米軍放出のモータを立川まで買いに出かけたり,センサは“ポツ”を使うことを計画したり,とまさに山口研ならではのロボットであった.1月になってやっと部品加工が終わり,2月も半ばに狭山のS社工場に毎日通って組み立てた.できあがったモノは,構造的に軸間距離のずれが有るためギアの摩擦変動が大きいことや,モータパワーが元々不足していることもあって,肘が上がりらない.図面は引いたが,設計はしなかったために起こった問題がたくさん出てきたのであった.まさに学生が設計したロボット第1号機であった.山口先生は,そんな結果でも,ポツで位置決め精度を上げよう,モータはもっと良いものにしよう,とロボット作りを楽しんでいたのが印象的であった.

 山口先生は私にロボットのおもしろさを吹き込んでくれた恩師である.いまは40台を越す移動ロボットを使って,複数移動ロボットの制御の研究をしていることが私から山口先生への最大の恩返しであると思う.


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